
2015年是中國人民抗日戰(zhàn)爭暨世界反法西斯戰(zhàn)爭勝利70周年。70年,說長也不長,一些人對那段災(zāi)難深重的歷史卻已經(jīng)淡忘,還有少數(shù)電視劇在商業(yè)利益的驅(qū)使下頻頻制造被觀眾稱為“抗戰(zhàn)神劇”的作品,以錯誤的歷史觀念、混亂的敘事邏輯、荒唐的情節(jié)設(shè)置、夸張的人物塑造和越軌的臺詞設(shè)計,消費這場人間劫難。
這些所謂抗戰(zhàn)故事罔顧歷史真實,普遍缺乏嚴(yán)謹(jǐn)?shù)膭?chuàng)作態(tài)度和扎實的史料考證,對抗戰(zhàn)時期的歷史常識和時代特點進(jìn)行想當(dāng)然的臆斷和編造。往輕了說是愚蠢無知,往重了說是解構(gòu)歷史,褻瀆英靈。
“抗戰(zhàn)神劇”集中反映了當(dāng)前某些文藝創(chuàng)作者缺乏專業(yè)精神和基本底線的不良傾向。少數(shù)“抗戰(zhàn)神劇”的投資編創(chuàng)者為了獲得最大化的商業(yè)利潤,毫無原則地在抗戰(zhàn)劇的框架下植入各種所謂“看點”“雷點”和“槽點”,甚至不惜進(jìn)行“自黑式營銷”,以達(dá)到吸引注意力、擴大受眾基數(shù)、獲得更高收視率的效果。
“抗戰(zhàn)神劇”對歷史毫無顧忌地戲仿和拼接反映了歷史教育的缺失。邁進(jìn)現(xiàn)代化社會的過程中,人們在追逐物質(zhì)利益和進(jìn)行精神消費的同時,普遍丟失了歷史教育。一些優(yōu)秀的文化傳統(tǒng)和古老的歷史遺存被束之高閣,針對抗戰(zhàn)歷史更是欠缺足夠的嚴(yán)肅認(rèn)真的系統(tǒng)教育。一些年輕人“哈韓”“哈日”成風(fēng),甚至崇洋媚外、數(shù)典忘祖。這些社會現(xiàn)象讓那些隨意褻瀆歷史的創(chuàng)作者有機可乘。因為,即便他們肆意篡改歷史、調(diào)侃先烈也不會引來大規(guī)模的口誅筆伐,更不會因此丟掉飯碗。
文藝工作者應(yīng)當(dāng)成為時代精神的引領(lǐng)者,但“抗戰(zhàn)神劇”的歷史觀和戰(zhàn)爭觀出現(xiàn)了嚴(yán)重的偏失。他們不但對戰(zhàn)爭的殘酷沒有切膚之痛,對民族之殤表現(xiàn)出麻木不仁、無動于衷的心態(tài),也缺乏愛國主義情懷、責(zé)任意識和大局觀念,對抗日戰(zhàn)爭的艱巨性和復(fù)雜性,對當(dāng)時中國的社會狀況和民族心理缺乏足夠的了解和深刻的認(rèn)知。不洞悉歷史、不了解戰(zhàn)爭,就不能正確理解抗日戰(zhàn)爭為什么前后經(jīng)歷數(shù)年之久,不能理解中國人民為取得抗日戰(zhàn)爭的偉大勝利付出的艱苦卓絕的努力和沉重如山的代價。
藝術(shù)可以放飛想象的翅膀,但一定要腳踩堅實的大地。歷史題材影視創(chuàng)作應(yīng)該自覺維護(hù)民族尊嚴(yán)和歷史正氣,堅守思想品格和藝術(shù)情懷,以現(xiàn)實主義精神和浪漫主義情懷書寫這段偉大歷程,用社會效益和經(jīng)濟效益俱佳的精品力作來告慰英靈、銘記歷史。
2015年は中國人民抗日戦爭および世界反ファシスト戦爭勝利70周年にあたる。70年という歳月は、長いといえば長いが、長くないと言えば長くはない。我々の歴史に深く刻まれたあの戦爭を次第に忘れかけている人々がいる一方、コマーシャリズムが専橫する中、視聴者から「抗日神ドラマ」(荒唐無稽な抗日神ドラマ)と呼ばれる抗日戦爭を題材にしたドラマが頻繁に制作されてもいる。これらの抗日ドラマは、間違った歴史認(rèn)識や混亂した描寫やプロット、でたらめなストーリーや設(shè)定、誇張された人物のキャラクター、常軌を逸したセリフなどで、人類の災(zāi)禍を消費している。
いわゆる「抗日戦爭ドラマ」のストーリーは、歴史的な真実を顧みず、厳粛な態(tài)度や史料によるしっかりとした時代考証も一般的に欠けており、抗日戦爭期の歴史的常識や時代の特徴に対し憶測やねつ造が當(dāng)然のように行なわれている。軽く言えば、愚かで無知、重く言えば、歴史を捻じ曲げ、英霊を冒涜するものだ。
「抗日神ドラマ」は現(xiàn)在の一部の腳本家?作家のプロ意識の欠如やコモンモラルの低下傾向を表している。また、投資?制作者はビジネス上の利益の最大化を?qū)g現(xiàn)させるため、原則を全く無視して、抗日ドラマの枠組みの中に、いわゆる「見所」や「衝撃度」「突っ込み所」といった要素だけを取り入れ、悪びれずに自虐的なプロモーションを推進(jìn)することで、視聴者の注意を引くと同時に視聴者數(shù)を拡大させ、視聴率をさらに高める効果を得ようとしている。
「抗日神ドラマ」が歴史に対して全くはばかることなく織り込むダジャレや視聴者の受けを狙った要素のつぎはぎは、歴史教育の欠如を表している。現(xiàn)代化に向けて邁進(jìn)する社會の中で、人々は物質(zhì)的な利益を追求して、精神を消費させると同時に、歴史教育も普遍的に失ってしまった。一部の優(yōu)れた伝統(tǒng)的な文化や古い歴史的遺跡にまつわる抗日の歴史に対して、厳粛で真面目な體系的な教育に欠けている。
現(xiàn)在、一部の若者の間で「韓國フリーク」や「日本フリーク」が流行している。さらには外國を崇拝し、媚びへつらい、自國の歴史を全く知らない若者もいる。こういった社會現(xiàn)象がみだりに歴史を冒涜する制作者たちにつけいるすきを與えている。たとえ制作者が歴史を思うままに改ざんし、革命に命を捧げた烈士をからかったとしても、大規(guī)模な批判さえ起こらず、これによって仕事を失うこともないからだ。
文筆業(yè)に攜わる人は時代の精神的な指導(dǎo)者になるべきである。しかし、現(xiàn)実には抗日神ドラマの歴史観や戦爭観には深刻な偏りが見られる。これらの腳本家は戦爭の殘酷さを痛切に感じたことがないだけでなく、民族の革命烈士に対する無神経さや無関心な精神狀態(tài)が表れている。また、愛國主義の気持ちや責(zé)任意識および全體の情勢を捉える意識が欠落しており、抗日戦爭の苦難に満ちた複雑な歴史や、當(dāng)時の中國の社會狀況や民族心理に対する理解や深い認(rèn)識に欠けている。歴史を詳しく知らない、あるいは戦爭を理解していなければ、抗日戦爭がなぜかくも長い年月にわたったのかを正確に理解することはできないし、中國人民が抗日戦爭で偉大な勝利を得るために、どれほど苦難に満ちた壯絶な努力と重い代価を払ったかを理解することはできない。
蕓術(shù)は想像の翼を広げてもいいが、必ず地に足が著いていなければならない。歴史を題材にしたテレビ?映畫の制作は民族の尊厳や歴史の正しい気風(fēng)を維持することを自覚するべきであり、思想の品格や蕓術(shù)の気持ちを堅持し、現(xiàn)実主義やロマン主義的な精神を以て、この偉大な歴史の過程を腳本に書き、社會的公益性や経済的公益性を併せ持った素晴らしい作品で英霊の魂を鎮(zhèn)め、歴史を銘記するべきだ。
「人民網(wǎng)日本語版」2015年5月27日
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